「大人」になること
今週から、新年度が始まりました。
WINGでは、リーダーを決めるときに「立候補じゃんけん制」を導入しています。
これはどういう制度かというと、例えば学級長を決める場合、学級長になりたいと立候補した人たちは、どうしてなりたいのかを演説し、最終的に「じゃんけん」で決めるという制度です。
通常は投票などで決めるのですが、投票を小学校で行うと、民主主義が機能するための前提である熟議が適切になされず、人気のある子が学級長となり、実質的にチャンスが狭められてしまうことをどうにかしようとした、公立小学校教師が創り出した方法です。
「やりたい!」という気持ちさえあれば、誰にでも平等にチャンスがある。
誰がなっても、フォロワーシップでみんなでリーダーをサポートする。
そういった精神のもと、WINGでは何かを決めるときには「じゃんけん」で決めるようにしています。
さて、そんな「立候補じゃんけん制」で、とても印象的な場面がありました。
小学校の高学年で、学級長(2階のリーダーなので”階長”と呼んでいます)に3人の子どもが立候補しました。
みんな、「どうしても学級長になりたい!」と気合十分で演説し、じゃんけんになりました。
じゃん、けん、ぽい!
勝負は一発で決まり、一人の子が学級長に決まりました。
「やったああああああ!」
歓喜する横で、落胆する子たち。
きっと、負けた子たちはとてもくやしいだろうに「がんばってね!」と笑顔でその子に伝え、その場は終わりました。
帰り際、階長になった子が、僕に話しかけてきました。
「実は、とても悔やんでいることがある」と。
何があったのか聞くと、
「じゃんけんで勝った時、とてもうれしくて喜んでしまったけれど、なれなかったあの二人は気にしてないだろうか。とても申し訳ないことをしたとずっと思っていて…」と話してくれました。
その話を聞いた時、なんて優しい子なのだろうと思いました。
そして、その優しさゆえに生きづらさがあるのだろうとも、思いました。
自分は、なれた。
しかし、その影では、自分のせいでなれなかった人がいる。
そんな事実を知った時、どうすればいいのだろうかという問いに、その子はぶつかっていました。
これは、とても深く、大きく、人間が生きていく上で考えざるを得ない問いだと感じました。
考えてみれば、僕たちの人生でもそういう場面はたくさんあります。
受験に受かるということは、同時に受験に受からない人がいるということです。
就職に通るということは、同時に就職に通らない人がいるということです。
よかれと思ってしたことが、他人をとても不快にさせていることだってあります。
そもそも、自分がこの世に生まれてきたこと自体が、「生まれなかったたくさんの命」があることを意味しています。
何か行動すると、誰かを傷つけるかもしれない。
あるものになれた自分は、同時にあるものになれなかった無数の他人を生み出す。
いつだって、行動することは未練を残します。
そう考えた時、僕たちはどうすればいいのでしょうか。
傷つけることを避け、何も行動すべきではないのでしょうか。
それとも、傷つけることを気にせず、ガンガン行動していくべきなのでしょうか。
きっと、答えはそのどちらでもないでしょう。
僕たちにできるのは、「何も行動しない」ことと「気にせず行動する」ことの間にあるのだと思います。
「この行動は誰かを傷つけているかもしれない」という意識を持ちながら、「でも、その人たちの分までがんばる」という、未練込みの決断をしていくこと。
そして、「君たちの分まで、こうやって頑張っているよ」といつでも応えられるようにすること。
それこそが、「大人」になるということなのかもしれないと、思いました。
話を戻します。
その子からの相談に
「申し訳なく思う気持ちは、君がとても優しいからだよ。その人たちの分までがんばれば、きっとそれでいいんだよ」
と応えると、「そっか」と言って帰って行きました。
何気ない日常の一場面ですが、とても深く、大きな問いで、僕にとってはとても大切な一場面でした。
(文責 スミス)